1991/6/8
標高 1545m
斜里岳は知床半島の根元に聳えている山である。
斜里町では幕末に津軽藩の藩士が酷寒に多く倒れている。
ある感慨なしにはこの山を眺めることはできない。

 斜里岳遠望


北海道は酷寒の地である。
私も含めて、観光でこの北の大地を訪れる人はそのことを忘れがちである。
幕末、露西亜の南下に備えるために、私の故郷である津軽藩からも蝦夷地警備のため、多くの藩士がこの斜里町に赴いている。
津軽もけっこう雪深く、寒さの厳しいところである。しかし、それにもかかわらず、多くの藩士が酷寒に絶えられず命を失った。その寒さのほどが判る。
これが縁で、弘前市と斜里町は友好都市の取り交わしをしている。

釧路からこの斜里町に向かって車を走らせると、大草原が広がり、北欧的な大規模酪農が行われているのを見ることができる。
こうした景色に、内地の人間は北海道らしさを感じ、すばらしいと喜ぶ。しかし、この釧路から根室、中標津に至る広大な根釧原野を開拓するためには、想像を絶する多くの開拓民の労苦と国家予算がつぎこまれているのだ。
多くの開拓民が、この北の大地に自らの人生の夢と希望を賭けて入植してきた。そして、そのほとんどが夢やぶれて去っていった。
そうした、開拓民が不毛の大地を切り開くための日々はほとんど悲惨といっていい。そして、それは明治大正とかの話ではなくて、つい2030年前、昭和30年代のことである。

また、清里町から登山口に向かっていくと廃校がある。私は道内の多くの山を登ったが、山麓にはこうした開拓民が去ったあとに残された廃校とか集落の跡を見ることが少なくなかった。
何かしらの感慨なしに斜里岳を眺めることはできない。

 
199168

8:00清岳荘─→9:00下二股─→10:25熊見峠─→12:42斜里岳─→15:50清岳荘

釧路から斜里町に向かうには391号線を北上して塘路湖を通り、標茶から弟子屈、摩周湖と屈斜路湖の間を抜けて清里町に出る。
ここから山道に入って登山口を目指す。
清岳荘の前に車を止めて歩きはじめる。
沢沿いの道を行くが、何度か沢の流れを渡らなければいけない。下二股で道は二つに分かれる。一つは旧道コースと言われる沢沿いの道で、もう一つは尾根の道を行く新道コースである。

このときは、まだ沢登りなどをしたことがなかったので、新道コースを選んだ。熊見峠のある稜線に出るまでは林の中の急登である。
1時間半かけて、やっと熊見峠に着く。今日の天気はあまりぱっとしなくて、斜里岳山頂は雲の中であった。ところが、峠で休憩していると次第に雲がとれてくる。うれしくなってくる。
ここから斜里岳稜線の「馬の背」には45分ほど登らなければいけなかった。とくに、馬の背の直前はガレ場で歩きにくく、まだ雪が残っているところもあった。
馬の背からは雲もなくなって、すばらしい展望である。
山頂に着いたのは1240分。
ここからは、知床の山や阿寒の山、そして摩周湖、屈斜路湖を見ることができた。オホーツクの海岸線が弧を描いてどこまでも続いている。
天気に恵まれた素晴らしい山行であった。
清岳荘に下山してきたのは4時少し前だった。























右上 知床の山々
下 阿寒の山々
右下 摩周湖が見える





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